自販機の下で

切り取って、削りだした先にこそ「おもしろい」が宿る

安寧の地はないのか

空気も春っぽいし、ゆるふわを自称して生きていこうと思う。




「八十五のばあさんに、文章なんて書けるわけがない」
とはうちの祖父の言葉だが、九十四になる自分は今度句集を出すとか言っている。
全くの矛盾だ。

先日、祖母に日記をプレゼントした。
昔から書いていた3年日記を、昨年の祖父の入院を機に止めてしまったと聞いた。
「手帳が小さくて使いづらい」と愚痴をこぼす祖母に、
そんなに書きたいならまた日記を、と買ってきたものだ。

もうひとつ日記を買った大きな理由がある。
祖母の”記憶の齟齬”が増えたためだ。
祖父が最近検査入院したことをきっかけに、覚えなければならない医療のことや、
祖父の介護を中心に日常の中に新しい「手順」が多く増えた。
増える情報に反して、祖母の記憶力が追いつかない。

洗濯、掃除、洗い物、花の手入れなど、もう60年以上つづけてきたことは、
危なげなく淡々とこなしてゆく。
一方で、機器操作など”新しい手順”に関しては衰えを感じざるをえない。
昔から使っていたラジオのボタンの場所や、テレビのリモコン操作、携帯電話のボタン操作など、
何度確認しても、記憶からこぼれ落ちていってしまう部分がある。
ものごとの正確な日時についても「記憶違い」が増え、
話をするなかでのちょっとした齟齬が家族との口論になる。
日記をつけることが、彼女の”外側の記憶”になってくれるだろうか。


タイムラインで「ネットの世界に安寧の地はない」という文字を目にした。
確かに一言ネットに晒した時点で、それは”公開”となることが多い。
mixiでも。facebookの「友達限定」でも。

私たちは、安寧の地としての「文章置き場」を求めているのではないか。
メモ帳では味気ないが、公開したいわけではないく、「交換日記」をしたいのだ。
そんなサービスは数多あるのだろうが、かといって、
そのどれもが多くの視線に対して「しっかりと守られているのか」については疑問を残す。

公開を当たり前として文章を書くよう身体を変えるのか。
まだ見ぬ安寧の地を求めてネットをさまよいつづけるのか。
当たり前にインターネットに文字を落とし続ける私たちは、選択を迫られ続ける。


インターネットに触れない世代の「日記」はどんなものだったのか。
友達が減ったと嘆く彼女の話し相手に、三年日記はなるのだろうか。
数十年書道で鍛えた腕は健在で、力強い字が紙に踊る。
どこまで続くかわからないし、毎日続くわけでもない。
それでも、そこが彼女の安寧の地であって欲しいと願っている。