自販機の下で

切り取って、削りだした先にこそ「おもしろい」が宿る

好奇心の筋肉を素振りで鍛える-「日々の記録」とは? 「記憶」とは? ライフログの可能性-

クローズアップ現代ライフログ」の特集を見た。

「日々の記録をネットでつける特殊な人々がいる」という、そんな立ち位置の番組だと思っていた。
そんな思いは、番組後半の糸井さんの言葉のフルスイングで砕かれる。

「書くことで鍛えられたんだと思う。人間ってどんどん感じなくなっていくけど、書くことで感じる力が高まる気がする。ずっと見ていたから、あの写真が撮れたんだと思う」(意訳)

日記をつけながら、手帳をつけながら、ブログをつけながら「なんでこんなことしてるんだろう?」と思ったことはないだろうか。
そう、全ては素振りなのだ。
おもしろいことがきたとき、それを「おもしろい」と感じるための練習だ。

「好奇心の筋肉を素振りで鍛えるには、書いてゆくことだ」(意訳)

祖父の趣味は俳句だ。
定年を迎える寸前に始めたこの趣味は、いつのまにやら大きくなり、95になり身体にたくさんの不自由を抱える今でも、7冊目の句集づくりに向けて精力的に取組んでいる。
彼は素振りをし続けてきたのだ。
景色を見て私たちが「綺麗だな」で終わるところを、五七五の世界を一度くぐらせて、そこから感性を掬い上げて生きてきたのだ。

先日祖母にプレゼントした日記は、素振りになっているのだろうか。
書かれていることは、祖父の病院や自分の買い物など日々の淡々とした記録が多い。
だが、その中に見える庭の花の開花や雨の記録に、季節の移ろいや感情は確実に残ってゆく。
月に一度の友達との温泉以外に、日々の「おもしろいこと」を見つけてゆく、そんな手助けになるのだろうか。

ウェブか手書きかなんて些細な問題だ。
私たちは”書く”ことでしか、もう一人の自分に会うことはできないのだ。

媒体は開かれている。
手元のメモ帳でもいい。
とりあえずワードでもいい。
ブログももちろんだ。
家の壁でもいい。
どんなところでもいいのだ。
切り取って、飾って、残した場所にしか、物語は存在しない。

なんてことのない日々におもしろさを見つけるのは、一言の「おいしい」「感動した」「また見たい」だ。
残すことを怖がる必要はない。
その一言は、未来の自分にだけ宛てた「幸せの地図」になるはずだ。