自販機の下で

切り取って、削りだした先にこそ「おもしろい」が宿る

漂流物

昨年の津波の漂流物が北米に続々と流れ着いているというニュースを見た。
一時期Twitterのトレンドに「ハーレーダビットソン」があった、あのニュース。

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太平洋に放たれた漂流物は一年後に知らない沖に打ち上げられるけれど、
ネットの私たちの言葉は、何年後にどの沖に打ち上げられるのだろうか。
中学生の時の自分のブログを見つけてしまった時のあの恥ずかしさはどこからやってくるのか。


角田光代「さがしもの」を読んでいる。
amazon:さがしもの 角田光代
来年の高校NHK杯の課題ということで一昨日読んでいたら、なんと筆記試験にも出てきた。
モノや人には出会う時はとことん出会うし、追いかけてくるものはどこまでも追いかけてくる。

この本には、主人公が売った古本と旅先で何度も出会う「旅する本」という短編が収録されている。
本に追いかけられて読んだ最初のページに”旅先で本に追いかけられる”内容が載っていて、いつでも事実は小説より奇だ。


しかしよくよく考えると、事実が小説より奇-つまりおもしろく-となっているのは、自らを物語化する視線があるからだ。
物語の端役を他人に演じさせるタイプの人間(いわゆる悲劇のヒロイン系の女の子とか)には正直飽き飽きしている。
他人を端役でなく主役に据えた場合、時にそれは綺麗な恋になったりストーカーになったりする。
そして、物語が自分とモノとの間でのみ成立する人こそが、日常を物語化できる人間だ。
日常を物語化できる人の中でも、それをさらに「他人に見せる形」にできる人々がいる。
たぶんそれが日常風景の写真家であり、エッセイストだ。物語化でメシを食う人々だ。

我々が物語を作れないと言っているのではない。逆だ。我々は物語を作るべきだ。

例えばすべて1冊ずつしか置かれてない本屋の棚の片隅に、それだけ2冊ある本にはどんな意味があるのか考えるのだ。
例えば今日、たった一つの落球で一日の自分の活躍を自分で潰してしまったキャッチャーの気持ちを考えるのだ。
例えば我が家に積上っている食べかけのフリスクの山の意味を考えるのだ。
例えばポイントカードの端数処理方法を考えたひとがどれだけめんどくさがりだったか考えるのだ。

そこには事実しかない。物語を作るのは我々だ。
妄想しろ。空想しろ。そして、書け。
オリジナルじゃなくていい。巧くなくていい。きれいじゃなくていいから。

我々が今書いた物語が、数年後や数十年後に自分や他の誰かに「おもしろい漂流物」になってくれるよう、
精一杯の物語をインターネットの海に投げ続けるしかない。