自販機の下で

切り取って、削りだした先にこそ「おもしろい」が宿る

キリトリセン

おはよう。久しぶりなのでつれづれなるままに書く。
定期的に書いてないとはてな記法を忘れて慌てるよね。


過去の自分の文章に縛られて『舟を編む』を再読しつつ投稿している。当時は「ライフワーク」を持てる人になりたいなぁ、と思った、ような気がする。『天地明察』も”改暦”という「一生の仕事」を見つけ、走り続ける主人公の幸せが四肢に染み渡る感じだった。高校の頃に読んだ『頼山陽』も”日本外史”へと言葉に生涯を捧げているし、『聖の青春』も村山(『三月のライオン』二階堂のモデル)と"将棋"との劇的な出会いを本にしたわけだから、「人と仕事」という形で人間の一生を描くのはポピュラーかつ人を感動させる典型なのかもしれない。


偏見だが、自分の大学にいる人々は勉強に関する「妥協」をよく知る人が多いと考えてる。
ダイアリのほうで、「努力する才能ってあるよね」みたいな話を書いたことがあるが、私大の文系って既に「数学」「物理」「化学」あたりを放棄して妥協して勉強してる人がほとんどなわけで、いちおう妥協したなかでがんばった人たちが早慶とか行って、さらにそこで妥協を重ねて「もう一年勉強する気力はない」とか言って入ってきたのが僕たちなわけで、その劣等感たるやすごいよね、と。
(あくまで主観であって、そんな人が僕ひとりだけかもしれないということも考えている)
(そして上記の内容を括弧付きで補足して保険をかける自分にも嫌気が刺している)
(メタメタしいからこのへんで止める)


「一生の仕事」を見つけた人たちって、傍から見てどうなんだろうか。
おそらく、それは「妥協」しない、もしくはできない体質の人だ。
だから僕は一生「一生の仕事」に憧れながら妥協し続けて生きていくのかもしれない。

ただ、その仕事をしてる人が「これはオレの一生の仕事だ!」と考えていたかと言うとそんなことはなくて、きっと前にむかってがむしゃらに進んでいただけだと思う。わからないけれど。

だから重要なのは、今向いている方向が前だと信じて、理想があるならとりあえずそれを追っておいて、もし落ち着いたならその現状に感謝と不満を抱き、殻を破るにせよつけたままにせよ、ひたすら走り続けるしかないんだなぁって、思う。


物語として振り返れば、「あぁ一本の道を走ってきたのかもしれないなぁ」と思える余地を残せるように、
日々、停滞をも前だと信じて、空元気と自身と能天気で愚痴を吐き嘘を吐きながら、
自分の歩いた道が何かの絵になるかもしれないと信じて、キリトリセンを自分の後ろに引きながら、
ぐるぐると同じ道かもしれない場所を歩き続けるしかどうにもしょうがない。